鈴木梅太郎の業績

農芸化学の誕生とその歴史

清水謙多郎 shimizu@bi.a.u-tokyo.ac.jp

農芸化学概論の第1回の講義として、「農芸化学の誕生とその歴史、鈴木梅太郎の業績」というタイトルでお話をしたいと思います。
<最初の農芸化学の説明の部分は省略>
農芸化学は、もともとは「Agricultural Chemistry」の訳語で、化学を応用して農業の諸問題を研究する学問として登場しました。 ちなみに、この背景の写真は、現在の駒場東大前駅から駒場コミュニケーション・プラザ北館の方を眺めたものです。 なぜ駒場の昔の写真か。その話はこれから追々したいと思います。
まず、今日のお話は、新宿御苑の地から始まります。
明治5年10月、内藤新宿試験場が開設されました。牧畜、園芸の改良を目的とする、今日の農業試験場のような研究機関でした。試験場では、内外の動植物を収集して、それらを養畜・栽培し、その適性、病害に対する対処法、生産を増大する方法を研究し、試業に供するものは府県あるいは民間に分与しました。例えば、明治7年には、サクランボ、ブドウ、ビワ、明治8年には、オリーブ、リンゴなどが試験的に栽培され、各府県に配られています。それらの中には、現在、その地方の特産品となっているものも少なくありません。
明治7年、その内藤新宿試験場に、外国人教師を雇用して農学校を設置することが決まりました。 こちらは、明治8年に裁可された「農業教師雇い入れ伺い」ですが、ここに、家畜医2名、耕運教師1名、牧畜教師1名、農家化学者1名、耕運ならびに牧畜に老練の農夫2名とあります。 ただ、この方針は混乱をもたらしました。まず、青木に対する、あいまいな要請で青木は動くことができず、上野の方はまず家畜医師を選出しました。しかし、内務省で計画を進めていく内に、1つの専門学校の教師が多国籍にわたることは管理上、無理があることがわかってきました。札幌農学校がアメリカ、工部大学校がイギリス、司法省法学校がフランスで統一され、計画が進んでいたことも参考にされたと考えられます。また、家畜医師を中心にしたことも問題でした。本来、農学校は、農学全体を統括できるような教師を中心にすべきであることに気づくことになります。
そこで、教師の採用方針を改めて示したのがこちらです。この時点で、教師は英国からまとめて採用すること、獣医教師を中心するのではなく、農学の大教師を中心に据えることの2点が決まり、その方針転換をダイレクトに現地に伝えるため、大久保は、富田を派遣しています。 現業と学理の両方を追及したものであったことがわかります。
外国人教師を英国から招聘する際に、人材をサイレンセスタ農科大学に求めることになります。サイレンセスタ農科大学は、当時、イギリス随一の、イギリス最古の農学教育機関でした。 獣医学教師のマクブライドに加えて、農学大教師、化学教師、現業学教師が決まりました。
サイレンセスタ農科大学については、以前から詳しい調査が行われており、施設、講義内容など、「農学校」のモデルになったと言われています。初代校長は、英米へ留学して主に牧羊について学び、帰国後明治政府の勧農畜産政策を担った、日本牧羊の父とも呼ばれる岩山敬義です。こちらの農学校大意は岩山敬義によるものです。
さきほどの分析教師として招聘されたのは、エドワード・キンチでした。キンチは、サイレンセスタ農科大学の化学の助手を経て、招聘時には、他の大学に赴任していましたが、サイレンセスタ農科大学の紹介があったものと思います。 ちなみに、キンチは、日本からの帰国後、サイレンセスタ農科大学の化学の教授に就任しています。さて、「農芸化学」という言葉がここで登場します。このエドワード・キンチの雇用契約書は、明治9年6月20日の日付ですが、原文は英文で、鈴木宗泰が訳しました。鈴木が「農芸化学」という言葉を最初に訳出したかどうかはわかりません。むしろ、当時、すでに使われていた可能性が高いと思います。 ただ少なくとも、自分が調べた範囲では、これより以前の資料で「農芸化学」という言葉を使っているものは見つかっていません。
さて、本格的な農学教育を行うにあたり、お雇い外国人と合わせて重要なのが、西洋からの文物の輸入です。 図書については、東大文書館柏分館に「書籍一件廻議綴」という史料があります。 虫食いと紙の付着が激しく、全部は読めませんが、明治6年の図書の購入の記録があり、これは「駒場農学校等史料」に記載されていないデータでした。
こうして外国人教師が決まり、生徒の募集も行われ、明治10年11月、農学校入学規則が制定されます。ここでは、専門科目が明示されていて、農学校設立では、農学、獣医学、農芸化学を3つの柱としていたことがわかります。
現在の駒場の写真です。
内藤新宿では、農学校の前身である農事修学場がすでに発足していましたが、1878年(明治11年)、駒場に移転し、ここで農学校が開校することになります。 一方、西ヶ原の樹木試験場では山林学校が発足しました。1878年(明治15年)のことです。農学校はその後駒場農学校と名前を変え、1982年(明治19年)、駒場農学校と山林学校が合併して東京農林学校が発足します。そして、1986年(明治23年)、帝国大学に組み込まれ、農科大学となります。
松見坂(現在の松見坂交差点)から描いたと言われる図です。明治9年11月、農事修学場を駒場野に移すことが決定されました。内藤新宿の農学修学場は狭く、またとくに外国人教師が、近くに宿場の遊里があって教育に適さないと主張したためとも言われています。建築が始まっていた寄宿舎も急遽、駒場野で立て直すことになりました。駒場野は、もともと将軍の狩場で、幕末には西洋流の調練を行い、明治には明治天皇が諸軍を率いて閲兵を行わせたこともありました。
駒場は現在教養学部がありますが、昭和10年まで、ここに農学部がありました。一方、この弥生の農学部キャンパスに第一高等学校がありましたが、駒場に移って、現在の教養学部になっています。
明治11年1月24日、明治天皇、大久保利通の臨席のもと、農学校の開校式が行われました。大久保利通は、開校式の挨拶の中で、農をもって国民の生活を豊かにする事業は今日まさにこの日から始まるのだと言いました。写真は、現在の駒場公園の奥の広場にあった農学校の本校舎です。両側が植物園ですが、まだ苗木が植えられたばかりのように見えます。
エドワード・キンチは、化学分析の手法の指導に貢献しました。土壌、水、農産物、水産物、肥料として考えられるものを次々に分析していました。また、キンチ自身、大豆が味噌、醤油、豆腐などに効果的に利用されていることを海外に示すなど、多くの論文を書いています。
キンチの後を引き継いだのがドイツのオスカー・ケルネルです。10年以上にわたって日本で指導を行いました。 ケルネルもさまざまな分析を行っていますが、分析した結果に関する議論、その応用などについて触れたものもあります。 また、人糞尿の分析データなどは現在でも有用であると言われています。貯蔵法から利用法について言及しています。干し草については、ドイツと家畜の消化率を比較し、日本の場合は、タンパク質に富んだ飼料を加えるべきとの意見を出しています。 下総の酪農品の保存性がヨーロッパより悪いという結果、さらにその改良法として、搾乳後すぐに遠心分離器にかけてクリームを分離する方法、水でミルクを冷やす方法などを提案しています。(キンチとケンネル −わが国における農芸化学の曙− 熊沢喜久雄, 肥料科学, 第9号, 1-41 (1986))
現在、農学生命科学図書館には、キンチ・ケルネル実験ノートおよび学生実験ノートが保存されています。
明治27年、農科大学では、農科大学学術試験彙報という論文集が発行されました。そこに掲載されている合計46報の論文のうち、ケルネルが著者の論文29報、うち単著13報になります。その内訳は、肥料・肥料試験 17、動物栄養・飼養 5、農産製造学 3、土壌 2、植物栄養 2 で、現在の農芸化学の分野に関係の深いものとなっています。 また、日本で執筆し、ドイツで発表した論文は74報に及んでいます。
こちらは、ケルネルが日本を離れるにあたり、教え子であった古在由直が書いた事蹟ですが、この資料にありますように、絶大なる賛辞を贈っています。
現在の学生実験書の前身とも言える農芸化学分析書の緒言に、もともとはケルネルが書いたノートを学生が参考にしていたものと書かれています。
ケルネルの分析書は、現在、日本農芸化学会が保存しています。
こちらは駒場の農学校の平面図です。現在の並木道がすでに存在していることがわかります。泰西農場では、主として西洋の耕作法を用い、小麦、エン麦、亜麻(アマ)、甜菜(テンサイ)、牧草、空豆、甘藷、トウモロコシ、馬鈴薯などを栽培していました。 これに対し、本邦農場では、日本在来の耕作法の改良を目指し、夏蕎(ナツソバ)、里芋、大角豆(ササゲ)、甘藷、韮、胡羅葡(にんじん)などを栽培していました。この本邦農場を開いたのが船津傳次平です。冒頭の背景の写真は、手前にこの本邦農場を写しています。 化学用試験地は農芸化学が使用していたと考えられます。
さきほどの地図に合わせて、南が上、北が下になっています。敷地のはずれの方の地図の精度が悪いため、地図を若干変形させています。 現在の駒場Uキャンパスまでを含んだ広大な土地であったことがわかります。 水田は、テニスコート、第二グラウンドの土地の低い部分にありました。現存するケルネル水田は、そのごく一部になっています。
英国人教師が数年で辞めていったのに対し、ドイツ人教師は十年という単位で日本で教育に携わりました。
従来、英国人教師は、低く評価される傾向にありました。
英国人教師は、日本の現状とは疎遠なものが多かったため、わずか2〜3年という短い期間で任期を終え、母国に帰りました。そのため、農業教育史においてはいろいろな評価があります。 ただ、少なくともキンチに関しては、日本の土壌・肥料等について、はじめて近代化学の視点から分析を施し、その業績は前述のケルネルの米作肥料試験につながっていくという意味で重要であり、また横井時敬はキンチを介してイギリスの農芸化学者チャーチの著書を知り、それをヒントに塩水撰種法を産み出すこととなったという点も忘れてはなりません(熊澤恵里子先生)。
こちらはキンチの農用分析表です。この資料は現在名古屋大学の図書館にありますが、その経緯についてはまたの機会にお話ししましょう。(「農学生命科学図書館の歴史」(清水謙多郎)http://www.bi.a.u-tokyo.ac.jp/~shimizu/tosho/toshokan.html)
古在由直は、ケルネルの教え子の筆頭で、農学校を卒業後、日本で最初に農学博士をとった8人の1人です。東京帝国大学で選挙で総長になられた最初の先生です。古在由直先生は、足尾銅山の鉱毒を、権力におもねず、科学者の良心をもって詳細に分析調査したことでも知られています。 また、日本酒・ビールの醸造研究にも携わり、醗酵学の創始者と言われています。
足尾銅山の鉱毒については、研究室を挙げて調査したということで、鈴木梅太郎も何らかの形で関与した可能性が高いと思います。
 
鈴木梅太郎は、明治7年、静岡県に生まれています。 明治29年、帝国大学を卒業します。当時は、農学校が帝国大学に組み込まれ、農科大学となっていましたが、鈴木梅太郎は、農科大学となった農芸化学科の第1期卒業生でした。 博士取得後、ベルリン大学のエミールフィッシャーのところに留学します。エミールフィッシャーは、糖鎖やペプチドの合成の研究で知られており、鈴木が留学している1902年にノーベル化学賞を受賞しています。帰国後、33歳で教授となり、その後まもなく、鈴木梅太郎の最も知られた業績、ビタミンB1の発見を行います。こちらに戦争のことが書かれていますが、この後の話は、戦争のことも関係してきます。
鈴木先生は留学から日本に戻るとき、エミールフィッシャーに今後どのような研究をすればよいかを尋ねました。そのときの話がこちらです。エミールフィッシャーは、設備など、日本は欧米にかなわないので、日本固有の研究をするのがよいと語ったとあります。
ビタミンとは、栄養素のうちで、糖質、脂肪、タンパク質、無機質以外に必要とされる微量の有機物です。微量で、生体の代謝、生理機能を正常に維持する働きをします。エネルギー源や身体の構成成分にはなりません。 動物にビタミンが欠乏すると「ビタミン欠乏症」という固有の症状が現れることになります。
こちらは主なビタミンの表です。 ビタミンには、水に溶けやすい水溶性ビタミンと、油脂に溶けやすい脂溶性ビタミンがあります。水溶性ビタミンは、生体内で溶液に溶けた状態で、貯蔵されず、尿で排出されます。脂溶性ビタミンは、一般に肝臓や脂肪組織で貯蔵されます。 中央の欄が機能で、右側の欄が欠乏症です。青字は5大ビタミン欠乏症と呼ばれているものです。
これらの欠乏症の中で、ビタミンB1の欠乏症である脚気があります。 心不全と末梢神経の障害、これによって倦怠感、食欲不振、足のむくみやしびれなどを引き起こします。 また、症状が進むと、脚気衝心と呼ばれる脚気に伴う心筋障害を引き起こすこともあります。命に関わる危険な病気で、結核と並んで日本の「国民病」と呼ばれていました。
 
富国強兵を目指す明治政府にとって、軍の脚気は大きな問題でした。実際の戦闘による戦死者に比べて、脚気による死亡者がいかに多いかがわかります。 ただ、ここで、海軍と陸軍では、その死亡者に格段の差があることがわかります。
弥生キャンパスにある農学部グラウンドです。この写真の奥の一角に脚気病院がありました。
 
脚気は、毎年多数の患者を出していましたが、外国人医師(西洋医学)も、治療・病因解明には成果が得られないでいました。 そこで脚気病院を設立し、漢方医には遠田澄庵と今村了庵、洋方医には佐々木東洋と小林恒が選ばれ、各自の最良とする治療法を試みさせることになりました。 世間では「漢洋脚気相撲」などと称して注目されました。 西南戦争で国家予算の2倍以上の戦費を費やしていたときに脚気病院が設立されたことは、明治政府がいかに脚気対策を重視していたかがわかります。
明治11年から13年まで3回に分けて脚気病院報告が出されました。
 
脚気病院の意義ですが、まず、世界最初の官立脚気研究病院であったということが挙げられます。1888年、オランダ政府がオランダ領東インドのバタビア(ジャカルタ)に病理解剖学兼細菌学研究所を設立する10年前です。 次に、漢洋医学の協同研究であったこと。対等な立場で競い合い協力し合うという試みは西洋医学が重視されていた時代において画期的でした。 次に、近代脚気研究の基礎を確立したこと。脚気に特効薬がないことを確認した、世界で最初の臨床統計を作成した、脚気の原因究明のための病理解剖を行ったことがなどが挙げられます。 そして、病因の解明には、臨床研究のみでは不十分であり、生理学、化学など幅広い基礎研究分野の協力が必要との結論に達しました。そのため、管轄が内務省から文部省に移り、東京大学医学部脚気病室として引き継がれることになります。 ちなみに、脚気病院の建物は、当時流行していたコレラ患者のための避病院に使われました。その後に第一中学校が入ってきます。
さて、さきほどの海軍の脚気患者数が非常に小さかったという話をしましたが、この高木兼寛(たかきかねひろ)という人のおかげであると言えます。 高木兼寛は、イギリスで5年間留学した経歴をもつ、海軍の医者です。当時、海軍艦船で多発していた脚気の問題に対し、詳細な実態調査を行い、脚気の原因が食にあることに着目しました。 高木は、パークスの「実際衛生学」(A manual of practical hygiene)を参考に、食物に含まれる炭素と窒素の重量比を適性とされる値に近づける兵食改良を実施し、実際に成果を上げました。 高木の成果が、早い時期から注目された一つの理由は、医学研究団体「成医会」を設立し、英語の論文誌を発行して、自身の成果を積極的に掲載したことが大きいと言えます。
高木は、世界に先駆けた臨床実験の成果を1885年(明治18年)「脚気の原因と予防について」という論文として発表しました。
明治16年の龍驤によるニュージーランド、南米、ホノルルを回る航海では、376人中169人という多くの脚気患者を出し死者は25人に及びました。 それ以前に、高木は兵員の食事を調査し、脚気を多発している層の窒素/炭素比は28〜30、脚気の発生をあまり見ない層では22〜23であることを発見しました。 パークスが「適性」としているのは15なので、窒素/炭素比がそれに近づくように食事を改良すべきであると考えました。 明治17年、高木兼寛の改善食を積んで、筑波は龍驤と同じコースを航海しました。
その結果、脚気による死亡者数をゼロにすることに成功しました。
こちらは、東京慈恵会医科大学付属病院で再現された当時の海軍の食事です。東京慈恵会医科大学付属病院のご厚意によりいただいた写真です。
当時は伝染病説が一般的であったため、高木の兵食改革の提案はすぐに採用されることはありませんでした。陸軍では、軍医の森林太郎(森鴎外)の強い反対もありました。 しかし、高木は、海軍病院の入院患者に対して、脚気比較試験を実施し、明治天皇に海軍兵食の改良を直訴するなどして、粘り強く改革を進めました。
この表は、19世紀末の主な病原体の発見の歴史を示したものです。こうした背景もあり、脚気伝染病説が強く信じられていました。
オランダの医師のクリスティアーン・エイクマンも、「脚気菌」の発見を目指して、オランダ領東インド(現在のインドネシア)に赴任してきました。 東インドでは、アチェー戦争でオランダ軍に大量の脚気患者が発生したためです。 もともと、原住民に脚気が起きていたのですが、戦争でオランダ人に患者が大量に出てくると放置しておけなくなったというのが実情です。
エイクマンは、当然のことながら、脚気菌が見つからずに困っていました。 そんなとき、ニワトリに脚気患者と似た歩行障害が発生していることを発見します。 その原因が、病院の残飯をエサとして与えていたニワトリに起きたことから、米飯飼育にあるのでは、と考えました。 さらに、エイクマンは、さまざまな食餌条件による飼育実験を実施し、多発性神経炎は白米で発病するが、玄米、籾米では発病しないこと、また、発病後も直すことができることをニワトリの動物実験で実証しました。 その成果は、1987年にドイツ語論文誌に発表され、研究内容が世界に知られ、日本でも注目されることになります。
こちらの日本食品標準成分表で、白米と玄米の差を見てください。 確かにビタミンB1が8倍くらい違っています。しかし、それとあわせて、無機質、鉄やマグネシウムがかなり違っています。実は、このことによって、鈴木梅太郎の着眼点が、最初、別なところに向くことになります。
 
エイクマンは、脚気の発生は餌の中にデンプンが存在することと関係することをつきとめました。 しかし、多発性神経炎が中毒によるものであるなら、デンプンは毒素を運搬するか、あるいはそれが腸管内でまたは物質代謝の過程で毒素を発生するはずである。玄米の皮には、その毒を無害にするか、毒の発生を阻止する物質が存在するというように考えました。 糠の中には健康に不可欠な物質が存在という点は合っていますが、その先は違っていました。
東京帝国大学医科大学教授の青山胤通(あおやまたねみち)は、1898年、エイクマンの実験結果を追試し、白米飼育のニワトリはエイクマンの実験通り、運動麻痺を起こすことを確認しました。 しかし、運動麻痺の原因は飢餓状態による可能性があり、末梢神経炎を認めなかったので、脚気と同一視することはできないという結論に至りました。
エイクマンの研究のその後ですが、1896年、エイクマンの後任として、フレインス(G. Grijins)が着任しました。 フレインスは、ニワトリの多発性神経炎は、デンプン食とは無関係に発病すること、 糠のほか、豆類(カチャンイジュー)にも多量の有効成分が含まれること、 有効成分は加熱により破壊されることを発見し、これらのことから、 神経系の代謝機能にとって不可欠な特殊な未知物質があり、さまざまな自然食品に不均等に含まれ、体内にも蓄えられている という結論を導きました。 エイクマンは当初否定しており、1906年にフレインスの説を採用することになりましたが、 エイクマンが、最終的にデンプン有害説を取り下げたのは1911年になってからです。
そのころ、古在由直は、エイクマンの実験結果の追試に取り込んでいました。白米が有害という説は農家にとって死活問題であり、調査が依頼されていました。 そこに鈴木梅太郎がドイツの留学から帰ってきました。鈴木は、古在の研究に参加し、1909年、白米中には、すべての無機成分が欠乏することを示しました。 エミールフィッシャーが鈴木に「日本固有の研究をするのがよい」とアドバイスした道をここで実際に歩むことになるのです。
「白米及糠中鐵ノ分布及化合状態ニ就テ」、「鳥類の脚気様疾病に関する研究並に白米の食品としての価値」という鈴木の2つの論文です。
鈴木は、白米中には、すべての無機成分が欠乏し、とくに動物の生活に必要不可欠な鉄、カリウム、カルシウム、リン酸、ナトリウム、マグネシウムなどが最も欠乏していること。糠中には、それらが豊富に存在すること。 そして、ニワトリとハトに対し、白米に各種無機成分を(鉄は鉄タンパク質として、リン酸はフィチンとして)追加すると予防ならびに治癒効果を示すことを発表しました。 さらに、白米飼育のニワトリとハトの脚気様疾病は無機塩類の欠乏によるものであり、無機塩類の適正な添加によって予防および治癒できると結論づけました。 ここで、鈴木は勇み足ともいうべきことをしてしまいます。 糠から有機性リン化合物フィチンを大量に精製し、「ユーキリン」と名付け、脚気の治療薬として発売してしまうのです。
脚気の特効薬であるかのように主張してしまいます。
ユーキリンの発売を受け、医学者たちがその効果を検討します。しかし、効果は認められませんでした。 1908年、日露戦争の脚気の惨状を受け、脚気の原因究明を目的として、陸軍省主導で、森鴎外を委員長とする臨時脚気病調査会が設置されていましたが、当時は伝染病説をとっていました。
1910年3月、志賀潔がエイクマンの実験を追試し、白米飼育の動物で脚気様症状を起こすことを報告しました。 1909年の熱帯医学会(インド)でブラドンの「人脚気も白米食によって発生する」という発表に触発されたものです。 1910年4月、都築甚之助が糠の有効成分(米乳、糠精)を発表し、11月、これらを純化し「アンチベリベリン」として大量生産します。 都築は臨時脚気病調査会の委員としてバタビアで調査、帰国後、細菌説を捨て、エイクマンの実験を追試しました。1910年12月、脚気病調査会委員を免じられます。 1910年10月、遠山椿吉と村井東輔は、糠の中から脚気に有効な有機酸(銀皮酸)を分離、後に「ウリヒン」として販売することになります。 このように1910年には、糠の有効成分が着目されるようになっていました。
この記事は、文学者村井弦齋の夫人の料理談です。都築が渋谷の養鶏場に試験を依頼したのですが、そこの妹がこの記事の夫人です。 当時、脚気伝染病説に沿った内容の記事が出ていましたが、このような一般雑誌にも糠の有効成分の記事が出るようになっていたのです。
1910年(明治43年)10月8日国家医学会例会演説の内容とその訂正です。この2か月の間に鈴木の主張は大きく変化します。1910年というめまぐるしい動きのあった年のまさに最後の2か月です。
1910年(明治43年)12月、東京化学会で、糠のアルコールエキス中の有効成分を分離、「アベリ酸」と命名したことを発表します。 1911年(明治44年)1月、東京化学会誌に「糠中の一有効成分に就て」という論文を発表します。 1911年8月、この論文の抄録が、ドイツの生物化学・生物物理学中央雑誌(Zentralblatt fur Biochemie und Biophysik)に掲載されます。 そして、1912年(明治45年)8月、研究成果の詳細をドイツの生化学雑誌(Biochemische Zeitschrift)に発表します。論文のタイトルは、「米糠の一成分オリザニンとその生理学的意義について」でした。 アベリ酸の「酸」は、不純物のニコチン酸によるものとわかり、イネの学名「オリザサティバ」に由来する「オリザニン」に改名しています。
こちらが「糠中の一有効成分に就て」の論文です。まとめは、清水誠名誉教授によるものです。
 
左側がドイツ生物化学・生物物理学中央雑誌に掲載された抄録です。この英語版が1912年にChemical Abstractに掲載されますが、この抄録に「新規栄養素」のことが抜けていたことは悔やまれるところです。 右側は、ドイツ生化学雑誌に掲載されたドイツ語の論文「米糠の一成分オリザニンとその生理学的意義について」です。発表されたのは1912年8月のことです。東京化学会誌の「糠中の一有効成分に就て」の論文発表から1年半以上経っていました。
ポーランド出身のカシミール・フンクは、1911年半ばごろから、エイクマン、フレインスらの研究に影響を受け、糠の有効物質(抗神経炎因子)の抽出に着手しました。 1911年11月、有効物質は水とアルコールに可溶で透析性であり、リンタングステン酸によって沈殿することをLancet誌に発表し、12月には、有効物質の硝酸塩結晶を得たことを報告し、分子式も提示しています。 抽出の手法は、鈴木と非常に類似しており、手紙のやりとりもしていたようですが、フンクの論文の中では、鈴木の研究をreferしていません。 ただ、先陣争いの話とは別にフンクの優れているところは、1912年6月の「欠乏症の病因」の論文で、有効物質をビタミンと命名し、酵母と米糠からの抽出単離法を報告したこと、そして何より、脚気と壊血病を欠乏症と認定し、それを総括的に論じた点にあります。 その後、フンクはビタミンという書籍を著し、ビタミン研究を総括することになります。(そこでは、鈴木の研究をreferしています。)
一方、実験栄養学による研究の流れがあります。 1881年、ルーニン(N. Lunin)は、ネズミはタンパク質、脂肪、糖、塩類、水だけでは生存させることができないが、ミルクを加えると生存させることができることから、ミルクには未知の不可欠栄養素があると主張します。 1891年、ゾーチン(C. A. Socin)も卵黄で同様の実験結果を得ています。 1905年、ペーケルハーリング(C. A. Pekelharing)「動物を良好な健康状態に保つために必要な未知の不可欠栄養素は、ミルクだけでなく、すべての自然食品に含まれる」と主張し、 その栄養素は、化学加工した人工飼料には存在しないこと、欠乏すると他の栄養素の利用が阻害されること、長時間の煮沸で破壊されることを主張しました。
フレデリック・ホプキンズは、イギリスの生化学者ですが、1906年、四大栄養素(炭水化物、タンパク質、脂質、無機物質)だけでは動物は育たないことを講演で主張しました。この講演はホプキンスのビタミンの先駆的な研究を象徴する講演としてよく言及されますが、 講演の場は、公共分析家協会11月月例会で「分析家と医師」というタイトルでした。山下政三氏によると、専門とは違ったこのような講演で「画期的な発見」の話をすることはあまり考えられず、当時すでに四大栄養素だけでは動物は育たないことは周知の事実であったのではないかとのことです。 ホプキンスは1911年ごろから、栄養素の研究に取り組んでおり、1912年11月、シロネズミの成長に必要な未知微量因子が存在することをThe Journal of Physiology誌に発表しました。
こちらがそのホプキンスの論文です。ホプキンスは、未知の栄養素をaccessory factorsと名付けました。 左の白丸のグラフは、炭水化物、タンパク質、脂質、無機物質を人工的に調合した食餌、黒丸のグラフはこれに2ccのミルクを加えた食餌を与えたラットの成育を示しています。 右の下のグラフは、最初、人工的に調合した食餌を与え続け、18日目以降にミルクを加えた食餌を与えたとき、落ちていた生育が復活したことを示し、上のグラフは、最初から人工的に調合した食餌にミルクを加えた食餌を与え、18日目以降に人工的に調合した食餌のみにしたとき、 順調な生育が抑止されることを示しています。ただ、この実験は、再現が困難であると言われています。
鈴木は、1911〜1912年、6回にわたり、東京化学会誌で、オリザニンが不可欠の物質であることを動物実験等により示しました。 このグラフは、ハトに対し、最初、白米と糠のアルコールエキスを食餌として与え、途中、白米だけにすると生育が抑止され、再び白米と糠のアルコールエキスを与えると生育が復活することを示したものです。
こちらは、ビタミンの研究の流れをまとめたものです。
1914年、エイクマン、フンク、鈴木がノーベル生理学・医学賞候補者として推薦されます。そして、1929年、エイクマンとホプキンスが受賞します。 エイクマンは、抗神経炎ビタミンの発見、ホプキンスは、成長促進ビタミンの発見が功績として認められました。 ホプキンスがビタミン研究で先駆的な研究をしたかどうかは議論の余地があるものの、トリプトファンを発見し、また筋肉の収縮が乳酸の蓄積を引き起こすことを発見したという功績があり、それらを踏まえての受賞だったと考えられています。 受賞を逃したフンクは憤慨してサイエンス誌に抗議文を出しています。
さて、鈴木のその後のオリザニンの研究はどうなったのでしょうか。 こちらは鈴木梅太郎先生が書かれた「ヴィタミン研究の回顧」(1943年)の一節です。 エミールフィッシャーが言ったように日本の国力はまだ十分ではありませんでした。 第一次世界大戦が勃発して、ドイツからの輸入に頼っていた薬品が絶え、日本酒の防腐剤のサルチル酸、酒の「もと」に入れる乳酸、サルバルサンなどの製造に研究室をあげて取り組むことになり、オリザニンの研究は中断してしまいました。
薬剤としてのオリザニンは1911年10月から販売を開始しました。
しかし、都築甚之助の「アンチベリベリン」(1910年)、遠山椿吉の「うりひん」(1917年)と違って医師に取り上げられず、脚気治療報告は出ませんでした。
 
 
オリザニンが注目されるまでには、さらに長い時間を要することになります。そのきっかけは、東京帝国大学医学部の島薗順次郎教授がオリザニンが脚気に効果のあることを発表した1919年(大正8年)にようやく訪れました。 島薗教授は脚気で不足する栄養素がビタミンB1であることを示し、これにより、脚気とビタミンB1の欠乏に関する研究が盛んに行われるようになりました。臨時脚気病調査会も、1923から1924年にかけて、大規模なビタミンB1欠乏食試験を行い、 1925年(大正14年)にようやく脚気ビタミン欠乏説が事実上確定することになります。 なお、島薗は、栄養学の重要性を説き、東大病院に特別調理室を設置しています。
こちらは、脚気死亡者数の推移を示したものです。ビタミンB1が発見された後も、一般人にとって脚気は難病でした。脚気死亡者は、毎年1万人〜2万人に及んでいます。 その理由として、ビタミンB1製造を天然物質からの抽出に頼っていたため、値段が高かったこと、もともと消化吸収率がよくない成分であるため、発病後の当該栄養分の摂取が困難であったことが挙げられます。 戦争が激しくなり、米穀搗精等制限令が出されると、皮肉なことに、質量を増やすために行われた精米率を下げるという措置が幸いし、ビタミンB1の栄養補給がなされ、死亡率が低下するという事態が起きています。 脚気死亡者数を根本的になくすには、戦後の高効率の合成法の登場を待たなくてはなりませんでした。
鈴木梅太郎先生の「ヴィタミン研究の回顧」には、オリザニン研究に対する当時の医学界の対応が書かれています。 しかし、医学者の側からすれば、動物の脚気のような症状を人間の病気と結びつけるにはしっかりとした根拠がなければならないという立場で、当時、脚気研究の先進国であった日本だからこそ、安易にそれを認めるわけにはいかないというだったと考えられます。
ここで前半を終わります。いくつか駒場の風景を紹介したいと思います。
さて、こちらは、みなさんご存じの、駒場キャンパスの6号館から15, 16号館の方を見た写真です。どうしてこんな写真を入れたかと言いますと・・・
こちらがその約100年前の風景です。ここに「農芸化学科」の建物が建っていました。
 
 
明治15年ごろに撮影したと思われる写真です。
現在の駒場野公園の丘から見た農科大学の建物とキャンパスです。写真の中央部分を、現在、井の頭線が通っています。
並木道を東から西に向かって写した写真です。左側が現在の教養学部1号館で、林学科の建物がありました。右側には家畜病院の平屋の建物がありました。現在、動物医療センターの玄関脇にあるヤンソンの胸像は、この時代、すでにその建物の前に置かれていました。
これも並木道を東から西に向かって写した昭和の初めの写真です。右側の家畜病院の建物は2階建てになっています。
農場事務所とそこから見た駒場のキャンパスです。
獣医学科の建物です。この建物は、農学部のほとんどの建物が戦争で焼失した中、奇跡的に焼け残り、昭和40年代まで教養学部5号館として使われていました。
農学科の建物です。
林学科の建物です。
建築されたばかりの教養学部1号館から見た風景です。左から、農芸化学科、物理学、植物学の建物です。また、手前の建物は動物学と水産動物学の建物で、時計台建設の際、西側半分が残ったものです。
大正の終わりか昭和の初めに撮影した(おそらく最古の)農学部の航空写真です。
大正時代の動物慰霊祭の写真です。動物慰霊祭の写真としては日本最古の部類かも知れません。
大正の初めの農芸化学の実験室です。
農芸化学科の教室の写真です。鈴木梅太郎先生もここで教えてらしたと思います。
農芸化学科の建物の北にあった動物飼育室の写真です。手前がラットのゲージで、ビタミン研究で使われていました。この写真の中央にパトローゲンと書かれた箱が見えます。
理研での鈴木梅太郎先生と農芸化学科の卒業生の集合写真です。
鈴木梅太郎先生に寄付された建物です。この建物は後に東京農業大学に移築されましたが、残念ながら戦災で焼失します。
駒場の運動会は当時としては非常に規模が大きく、「帝都運動会中、最も盛大なるもの」とまで称されました。奇想天外な仮装行列、派手な催し物で世に知られ、皇族が見学に来られることもありました。写真は日本最古の運動会の競技メダルです。
それでは後半に入ります。
まず、糧食研究会での活動です。 糧食研究会は、1919年(大正8年)、前年の米騒動を契機に食糧問題の重要性を強く認識した貴族院議員の林博太郎伯爵(貴族院議員)と稲垣乙丙(東京帝国大学)が、国民糧食の安定および改良を計ることを目的とし、討論・研究を行う会として設立されました。名誉会員に渋沢栄一、後藤新平、若槻礼次郎、田中義一、高橋是清などの名前が連ねられています。 鈴木梅太郎は、稲垣乙丙の後、1928年(昭和3年)から会長に就任されています。ここに挙げたようなさまざまな研究に取り組みました。
こちらは糧食研究会の写真です。農学部が弥生に移った後、川崎に移り、現在も活動を続けています。
糧食研究会を代表する成果として、パトローゲンの開発があります。 明治・大正時代、母乳不足のとき、乳児にコンデンスミルク(加糖煉乳)を飲ませていました。 加糖練乳は、牛乳よりも保存性が高く貯蔵に便利なため、薄めて利用されていました。しかし当時は、衛生面や希釈をめぐる問題もあり、乳児の死亡率も高かったようです。 そこで、鈴木梅太郎は、1922年ごろから、母乳代用品の栄養実験を行うようになりました。 鈴木先生は、当時出回っていた海外製の鷲印コンデンスミルクは、ネズミにタンパク源として与えても育たない、カーネーション印コンデンスミルクは、育つけど砂糖を入れないと腐敗するという実験結果を得て、栄養の完全な育児用粉乳の開発をめざします。 ココイド(精白大麦を加熱・膨化処理したもの)、粉乳、ビタミンB1、ビタミンD(酵母のエルゴステリン)、無機塩(マッカラム混合塩)を調合したものがパトローゲンです。
パトローゲンは、その後の育児用調製粉乳の技術基盤となります。
鈴木梅太郎は、もともと植物生理、クワ萎縮病の研究で博士号をとっています。 鈴木梅太郎は、クワ萎縮病の原因として栄養不足に着目しました。 「生長旺盛な時期に摘葉伐採がなされるため、根の貯藏養分の関係から生理障害を起して発病する」と考え、 クワを若いうちに酷使しない、葉の刈り取りを始めるのを1年遅らせるなどの対策を提案しました。 ただ、西ヶ原の蚕業講習所の山田という主任技師は、クワ萎縮病は病原菌が原因ではないかと考えていました。 実は、この山田の主張は、1967年、土居養二によってクワ萎縮病などの病原体が、現在ではファイトプラズマと呼ばれる微生物であることが世界で初めて発見されることで、正しかったことが証明されます。 山田が主張したころの光学顕微鏡では、とうてい見つけることができなかったのです。 現在では、栄養不足に陥った細胞にファイトプラズマが感染し発病するというのが明らかになっています。 鈴木は、博士論文をまとめた「植物生理の研究」、さらに「植物生理化学」という本を出しています。
ちなみに、鈴木が最初に執筆した本は、明治35年に出版された「肥料学原理」という本です。 さて、東京帝国大学における鈴木梅太郎の業績ですが、農芸化学という学問の大系化、発展に大きく貢献します。 日本農芸化学会を設立し、農芸化学科のカリキュラムの立案に関与します。 畜産学・飼料学の体系化に尽力し、日本畜産学会への指導を行います。日本畜産学会の設立では、鈴木梅太郎の門下である佐々木林治郎の尽力が大きく、佐々木は初代会長になっています。 水産化学の体系化、蚕糸研究の振興・蚕糸化学の体系化に貢献しました。
鈴木は、農芸化学全書の監輯にあたります。その第1冊は鈴木梅太郎の「植物生理化学」です。
ここで農芸化学の講義内容を見てみましょう。こちらは、明治11年冬の学科課程です。この時間割は農学科と共通になっています。お雇い外国人を中心とする講義で、化学講義は分析が中心でした。
明治17年の毎週の時間数です。やはり分析化学が中心であることがわかります。
明治23年の毎週の時間数で、帝国大学農科大学発足時のものです。最初の本格的な農芸化学のカリキュラムで、科目が大幅に分化しています。古在先生など、卒業生たちが教職についたころでもあります。
大正8年の授業科目一覧で、東京帝国大学農学部発足時のものです。このカリキュラムは、昭和初年に、栄養化学総論、栄養化学各論、さらに醸造学総論が加わったりしましたが、戦前、それほど大きくは変わりませんでした。 100年近く前のカリキュラムとしては、現在と驚くほど似ています。 なお、このカリキュラムには、生化学関係の科目がたくさん見られます。電気化学や機械学を入れたのも鈴木梅太郎ではないかと言われています。
昭和32年の授業科目です。科目が細分化され、必修科目の時間数も増えています。他学科の科目も含まれているとはいえ、選択科目も幅もたいへん広くなっています。これは、昭和40年代まで大きく変わっていません。
昭和53年の授業科目です。必修科目が整理され、必修選択科目が新たに設置されています。農芸化学独自の講義が多数存在し、実質的な選択肢が広がっています。
農芸化学を語るとき、どうしても触れておかなければならないのは、農芸化学の創始者と言われるリービッヒです。 植物の成長と産物の収量は、必要とされる栄養素のうち最も少ない量の栄養素に影響されるという「リービッヒの最小律」を提唱し、無機栄養素として、窒素、リン、カリウムの3要素を挙げました。 著書として、「Die (Organische) Chemie in ihrer Anwendung auf Agricultur und Physiologie」(化学の農業および生理学への応用)があり、農業の近代化に多大な影響を与えました。
さて、リービッヒが駒場農学校の教育研究に具体的にどのように関わってきたか、実はそれを裏付ける資料はあまりありません。 ただ、こちらの明治17年の駒場農学校一覧には、農芸化学は最も新しい学問で、これによって農業にサイエンスが持ち込まれたと書かれており、 リービッヒが植物の栄養吸収のしくみとその成分について明らかにしたことも書かれています。また、リービッヒを農芸化学の祖としています。
農芸化学とは、一言で(おさまらず長くなりますが)、さまざまな生物(植物、動物、微生物)およびそれらの生産物、生育環境に関わる現象に対して、化学を主体としつつ、広範な科学の知見、方法論を用いることにより、その解明をめざすとともに、成果を人間生活に役立てることを目的とする学問ということになります。我が国独自の学問分野として発展を遂げてきました。
 
駒込の文京グリーンコート、ここに「理化学研究所ここにありき」の碑があります。
理化学研究所1号館の写真です。
理化学研究所(理研)は、1917年、高峰譲吉の提言を受けて、渋沢栄一ら財界人と政、学、官界が一体となって設立された財団法人です。 特徴的なのは、主任研究員に研究テーマ、予算、人事の裁量権を与えていて、大学教授との兼任も可能としたことです。 研究室は大学内にも置き、理研からの研究費で研究員を採用できるという自由がありました。この制度は1922年に発足し、理研は「研究者の自由な楽園」と称されました。 もう一つの特徴は、理研産業団(理研コンツェルン)の存在です。研究成果を企業化して生まれた関連会社群からなる新興財閥で、産業応用の推進と研究費の確保を担っていました。 鈴木梅太郎は設立に関与し、主任研究員の1人となりました。理論物理学の長岡半太郎、金属工学の本多光太郎とともに理研の三太郎と称されます。 鈴木先生の理研での主な研究内容は、合成酒の研究、ビタミンの研究、タンパク質とアミノ酸の栄養学研究、農薬と天然物の研究、アミノ酸醤油の開発などです。
まず、合成酒の開発です。当時、1年間に日本酒製造のために使用される米は450万石で、これは450万人分の食料に相当します。当時、米の価格の急騰、輸入米の増加、食糧不足という状況にあり、米を消費しないで酒を造ることを目指すことになります。 鈴木らは、日本酒の味と香りは、米のタンパク質がアミノ酸になり、さらに分解されて発生する化合物によるものと考えました。そこで、米のタンパク質と似たアミノ酸組成のタンパク質をもつ絹糸屑などを分解し、デンプンと一緒にアルコール発酵させましたが、日本酒の味と香りは再現できませんでした。 そのため、あらためて日本酒の成分を調べ、それらを合成することを考えます。それを支えたのが、香気成分の検討と、藪田貞治郎によるコハク酸の製造の技術です。 合成酒としては、理研酒工業「利久」、大和醸造「新進」、昭和酒造(現メルシャン)「三楽」などが挙げられます。
  理化学研究所より提供していただいた利休の製法を解説した図です。
 
 
さきほど、オリザニンの研究が第一次世界大戦で中断したという話をしましたが、 1920年(大正9年)ごろからオリザニンの研究を再開します。大嶽了(おおだけさとる)が担当し、糠と酵母中のさまざまな成分に対して結晶化を試みました。 1930年(昭和5年)、オリザニンの単離に成功します。 また、高橋克己が中心となって脂肪性ビタミンの研究を行い、タラの肝油からビタミンAを抽出することに成功します。これは、純度が高く、欧米各国で特許を取得し「ビオステリン」と名付けました。
 
ここに挙げた図は、鈴木梅太郎著「ビタミン」(日本評論社)に掲載されているものですが、ビタミンに関するさまざまな先進的研究が行われており、理化学研究所の鈴木研究室は、ビタミン研究の世界的な拠点になっています。
こちらは、理研のビタミンの製品に関する資料です。1924年(大正13年)には理化学研究所の作業収入の8割をビタミンAが稼ぎ出したという話もあります。
昭和10年発行の岩波全書「栄養化学」、昭和11年発行の「栄養読本」。どちらも戦後まで、増訂版、改稿版が出版され、多くの人に読まれました。
鈴木梅太郎先生による講演、執筆などの資料です。
栄養に関する国民の関心も高まってきました。
鈴木先生は、タンパク質とアミノ酸の栄養学的研究にも取り組んでいました。 タンパク質は体内でアミノ酸に分解されます。そうであるなら、ラットは、タンパク質として食餌を与えなくても、 アミノ酸の混合物で育つはずです。 鈴木の研究室では、馬肉を硫酸で加水分解したものとバリタ(水酸化バリウム)で加水分解したものの混合液でも ラットを育つことを実証しました。 しかし、当時知られていたアミノ酸の混合物では育たないことも発見しました。 つまり、未知のアミノ酸が存在する可能性があるということです。 これを鈴木研究室では、X-factorと名付けましたが、たいへん残念なことに、ローズが発見したスレオニンに対してCH2が1つ足りませんでした。 スレオニンの発見までもう一歩のところでした。 鈴木梅太郎は、このように、天然素材の中から微量の有効成分を見出して分離するという研究を非常に得意としました。
こちらは、理研の鈴木研究室のメンバーの集合写真です。研究員は最大で100名程度いたそうです。鈴木先生の左は大嶽了で、 先生の研究をずっと支えてきました。この写真で注目していただきたいことがあります。女性の研究者です。 こちらの左側の女性は、丹下梅子です。日本女子大学校家政学部の第一期生で、1913年に東北帝国大学理科大学化学科へ入学し、女性初の帝大生の一人となりました。 卒業後、アメリカのスタンフォード大学などで栄養化学を修め、帰国後は母校の日本女子大学校の栄養学の教授を務め、理化学研究所に入所し鈴木梅太郎のもとでビタミンの研究を行いました。 1940年、ビタミンB2複合体の研究で東京帝国大学から農学博士の学位を受けました。67歳にして日米で2つの博士号を授与されたわけです。博士論文は紅花の色素に関する研究でした。 右側の女性は辻村みちよです。北海道帝国大学副手となり、1922年から東京帝国大学医学部医化学教室で研究を行い、1923年、理化学研究所に移ります。最初は研究生として、 鈴木梅太郎研究室で食品化学、栄養化学、生物化学の研究を行い、やがて三浦政太郎とともにビタミンCの研究を始めます。 彼女こそ、元祖「かっぽう着」。「緑茶中のヴィタミンCに就て」という論文を日本農芸化学会誌に報告し、1929年には緑茶中の渋味成分、カテキンの分離に初めて成功します。 1930年、緑茶中より、カテキンより渋味の強いタンニンを分離し、1932年(昭和7年)、東京帝国大学から農学博士の学位を受けました。。日本初の女性農学博士の誕生です。 博士論文は「緑茶の化学成分について」。戦後は、理化学研究所研究員となり、60歳でお茶の水女子大学教授に着任しました。 鈴木研究室では、そのほか、ビタミン、アミノ酸の研究で知られ、後に日本女子大学学長となる道喜美代、道と同時代に理研に入った西田寿美など、優れた女性研究者が活躍しています。
そのほか、鈴木梅太郎先生のさまざまな活動を並べてみました。
鈴木先生が研究を志した動機について、晩年、先生は次のように語っています。
鈴木梅太郎先生の研究についてまとめてみたいと思います。 まず、「産業の発達は科学の進歩により達成される」という考えのもと、産業科学(農林水産業、畜産業、農産製造業など)の体系化、技術の発明と改良に尽力したこと。 次に、日本人の主食の米、食糧、栄養・健康という社会ニーズに密接した問題に取り組んだということ。 社会の重要な問題の解決を目指し、鋭い切り口でサイエンスのテーマを探求しました。 次に、生物現象の解明から、生物が作る重要な化学物質を発見し、世の中に役立てるという研究を推進しました。 これは、農芸化学の「基礎から応用まで」の研究のパラダイムを具現化したものです。 最後に、さまざまな分野の研究者と連携してワイドスコープの研究を展開したこと。化学を主体としつつ、多様な方法論を用いて研究を行いました。
海外での評価ですが、鈴木は、1926、1927、1936年にもノーベル化学賞に推薦されました。ただ、1927年、1936年は、鈴木に推薦依頼があったのを農学部の方で鈴木を推薦してしまったといういきさつがあるようです。いずれにせよ、当時のビタミン関係の文献では、Suzukiの名前はよく見られました。 1932年には、ドイツ学士院賞を受賞しています。1937年、パリ万国博覧会にビタミンB1の結晶を出品し、名誉賞を受賞しました。 しかし、海外で鈴木の功績が取り上げられることは少なくなっていきました。
南極グラハムランド。ビタミン研究に功績のあった人たちの名前が地名として刻まれています。
ホプキンス氷河、フンク氷河、マッカラム峰、エイクマン岬、高木岬・・・
しかし、ここに鈴木の名前はありません。
海外での評価とは逆に、国内での評価は急速に高まっていきました。
日本国内での受賞・表彰が続きます。1943年、亡くなった年には文化勲章を受賞しています。
鈴木の叙勲の理由ですが、すべてをこの講義では語り尽くせません。
1985年、日本の発明家10傑の一人に鈴木梅太郎が選ばれました。 右の写真は、あの鈴木の研究を支えた大嶽了氏の遺品、鈴木梅太郎ゆかりのオリザニンなどの結晶標本です。第3回化学遺産に認定されました。
鈴木梅太郎の切手、メダル、書籍などです。
2014年には、「先生のオリザニン」という舞台が演じられました。
静岡市静岡県立大学。出身地である静岡県では彼の業績を顕彰し、「鈴木梅太郎博士顕彰会」が毎年県下の中学・高校生の優れた理科研究論文に対して「鈴木梅太郎賞」を贈っています。 静岡県立大学谷田キャンパスには鈴木の胸像や顕彰碑が建立されています。 左上は、昭和48年、鈴木梅太郎生誕100周年を記念して発足した鈴木梅太郎博士顕彰会の資料です。
2011年11月25日、東大安田講堂で、日本農芸化学会主催の鈴木梅太郎博士ビタミンB1発見100周年式典・記念シンポジウムが開催されました。
昨年4月27日、農学部2号館の1階玄関にある、鈴木梅太郎のレリーフの除幕式が行われました。
鈴木梅太郎「ヴィタミン研究の回顧」の最後の部分です。 「何の研究でもそうだが、研究は全く根気が続かなくては駄目である。せっかく始めても、途中で止めては何もならない」。脚気問題で医学界から相手にされなかったり、ビタミンB1の結晶化がなかなかできなかったりして苦しんだことを受けての言葉だと思います。 この最後の一節「途中で止めては何もならない」の部分は、平成20年の産経新聞でも紹介されたことがありますが、 まさに「孟母断機」という言葉と同じで、最後までやり通す努力が必要であることを言っています。 そして、この言葉の後、先生がさまざまな分野の研究者と共同研究してきたこと、そして、自分には幸いにして多数の共同研究者がいるから、これからも面白いことができるだろう、という文で結んでいます。現在のように、研究が細分化・多様化している時代では、この言葉のように、研究者間との連携はますます重要となってきていると思います。
良い研究を生み出すのは、「伝統と革新」です。基礎をしっかり勉強し、幅広い知識を身につけ、興味を広げて下さい。